★ご注意:この記事には、映画『万引き家族』のネタバレが含まれています。
映画『万引家族』概要
第71回カンヌ国際映画祭(2018年5月8日~)で日本映画としては5作品目(過去の受賞作は『地獄門,衣笠貞之助監督,1953.』『影武者,黒澤明監督,1980.』『楢山節考,今村昌平監督,1983.』『うなぎ,今村昌平監督,1997.』)のパルム・ドール(最高賞)を受賞した映画『万引き家族』。
監督は、母親の失踪により父親の違う4人の子が置き去りにされた1988年発生の「巣鴨子供置き去り事件」をモチーフにする『誰も知らない』(2004年.)、病院による子の取り違えに巻き込まれた二組の対照的な価値観、生き方の親子、家族を通じて親と子の関係、家族の関係などを描いた『そして父になる』(2013.)などの素晴らしい作品を撮り続ける是枝裕和監督(1962年6月生)。
出典:ギャガ公式チャンネル
出演は、是枝裕和監督の『そして父になる』(2013.)にも出演しているリリーフランキー。32歳のわがままな子どものような「ひきこもり」女性がボクシングを習い、社会経験を増やし、自立などする様を描いていると思われる武正晴監督の映画『百円の恋』(2014.)主演の安藤サクラ。
複雑な背景を持つ人間、子ども、家族。社会のなかで置き去りにされた人間、子ども、老人、男性、女性。社会から追い出された人々、社会から逃げ出した(離脱した)人々、社会から逃げていた人々の共同体――。 映画『万引き家族』は、安藤サクラ演じる柴田信代の言葉が印象に残る映画だ。
捨てたんじゃないです。拾ったんです。誰かが捨てたのを拾ったんです。捨てた人っていうのは他にいるんじゃないですか?
映画『万引き家族』柴田信代
また、産経新聞2018年5月21日付「是枝監督作品、カンヌ最高賞『万引き家族』邦画21年ぶり」の記事には、「この作品は、数年前に実際に起きた、親の死亡届を出さずに年金をもらい続けて生活する年金不正受給事件から着想を得て、是枝監督が10年の歳月をかけて作り上げた。」と、ある。
上記の「親の死亡届を出さずに年金をもらい続けて生活する年金不正受給事件」は、2010年頃から問題となる所謂「消えた高齢者」だと思われる。所謂「消えた高齢者」のなかには、生きていれば「国内最高齢(当時)の119歳の者もいる」などと話題を呼び、日本各地で家族による死亡した高齢者の年金不正受給が事件化し始めた。(参考:「所在確認、時の壁厚く113歳女性不明 111歳男性遺体 食い違い、書類処分 静岡新聞2010年8月7日付」)
映画『万引家族』あらすじ
東京の荒川に近い場所――東京の下町の小さな敷地に建つ古い平屋建て家屋には、この家の持ち主の祖母柴田初枝、息子・柴田治、治の妻・信代、子供の柴田祥太、信代の妹・柴田亜紀の5人が暮らしている。
死んだ夫から家を相続した年金暮らしの祖母。日雇いながらも働きに出かける父。クリーニング(店)工場で働く母親。学校に通っていない祥太。風俗業で働く信代の妹。彼(女)らは貧困層の家族だが――6人は「現在」を楽しんでいるようにも見受けられる。
だが、柴田治が虐待されていると思しき近所の幼い女の子を家に連れて帰り、柴田治と信代の子として育て始め家族は7人となるが――祖母柴田初枝の死や未成年者略取誘拐事件の発覚などにより共同体は解体されてしまう――。
複雑で奇妙な疑似家族を考察
映画『万引き家族』に登場する家族は非常に複雑である。登場する祖母「柴田初枝」、息子「柴田治」、息子の妻「柴田信代」、その夫婦の子「柴田祥太」、「柴田ゆり」、祖母「初枝」の孫「柴田亜紀」の6人(女性4人、男性2人)には血の繋がりがない。(柴田初枝とその孫「亜紀」との関係は、初枝の元夫の再婚相手の子供の子(元夫の孫)であり、「初枝」と「亜紀」に血の繋がりはない。)
また、祖母「柴田初枝」以外の5人には別の名前(「亜紀」は風俗店の源氏名だが)があり、柴田家の家族になる前は、それぞれが別の名前で(柴田治に家族がいたのかは不明だが)別の家族と生きていた。
彼(女)らは非常に貧しい生活をしているが、祖母には年金収入と「亜紀」の実親からの「お気持ち代」があり、不動産もある。父「治」は日雇いだが工事現場で働いてもいた。母の「信代」はクリーニング店の工場で働き、「亜紀」も風俗店で働いている。その後、父「治」、母「信代」は失業するが、再就職先を探す気配はない。 他人に知られたくない過去を持つ父「治」、母「信代」 が条件の良い再就職先を見つけるのは困難かもしれないが、そもそも積極的に探すことはしない。
そして、万引き、窃盗、未成年者略取誘拐、年金不正受給(詐欺)などを繰り返すこの6人家族のなかの大人(祖母、息子、息子の妻)からは、罪の意識や順法精神は微塵も感じられない。
遵法精神が求められ、他人への迷惑行為が批難され、コンプライアンスという言葉が社会を覆いつくし、必死に働くことが要求される現代社会の価値観に照らせば、彼(女)らは悪党なのである。怠け者なのである。
だが、社会の外で生きる彼(女)らは、自分が買ったコロッケを見ず知らずの虐待された子に与え、洋服を縫ってあげ、みなで海に旅行にいき、一緒に風呂に入り、抱きしめ、その子に寝る場所を与える。
祖母「柴田初枝」は絶対に否定的な言葉を言わない。母「信代」も 孫の「亜紀」も否定的な言葉を使わない。
父「柴田治」は、誘拐した男の子に自分の本名と同じ名前を与え、彼に万引きを教える。彼には万引き以外に教えられることがなにもないのだ。彼は男の子の父親であり、兄貴であり、友達でもある。女性の多い家族のなか、二人は「二人だけの男同士」の関係と居場所を構築する。それは、いつか自立を望み旅立つ男の子には絶対に必要な関係性かもしれない。
そう、社会の外で生きる彼(女)ら。法を犯す彼(女)ら。彼(女)らは悪党ではあるが、外道ではない。
小さな子どもをパチンコ店の駐車場の車中に放置する親、小さな子どもを虐待する親、行方のわからない小さな子どもの捜索願いを二か月後にだす親…彼(女)らこそ、外道ではないのか?
捨てたんじゃないです。拾ったんです。誰かが捨てたのを拾ったんです。捨てた人っていうのは他にいるんじゃないですか?
映画『万引き家族』柴田信代
彼(女)らは、誰かに「捨てられた存在」だったのだ。祖母は元夫から捨てられ、二人の小さな子は実の親に捨てられ、孫の「亜紀」も家に「居場所を見いだせない存在」だったのだろう。父「治」と母「信代」には深刻が過去があるが、それ以前の二人はどのような生活をしていたのだろう?子どもの頃の 父「治」と母「信代」 の生活は?想像になるが、この二人も「捨てられた存在」、家や社会のなかに「居場所を見いだせない存在」「社会から逃げ出した存在」だったのかもしれない。
哀愁の共同体(社会の外で暮らす者たち)
山口組系二代目「柳川組」組長の谷川康太郎氏(1928年 – 1987年)の言葉に「ヤクザとは哀愁の共同体(結合体)である。そこにあるのは、権力、圧力、貧困におびえる姿だけ。」「組は、前科とか国籍とか出身とかの経歴をいっさい問わないただひとつの集団だ。だから、社会の底辺で差別に苦しんできた人間にとって、組は憩いの揺籃となり、逃避の場となり、連帯の場となる。」などの言葉がある。
「殺しの軍団」を怖れられた 山口組系二代目「柳川組」組長の谷川康太郎氏 の愛読書はマルクスやレーニンだったともいわれている。
映画『万引き家族』の「家族」は、誰かに「捨てられた存在」、家や社会のなかに「居場所を見いだせない存在」の「哀愁の共同体」だったのかもしれない。そこは、「血縁」や「金」以外の「心」で繋がる場所。 そこは、彼(女)ら「憩いの揺籃となり、逃避の場となり、連帯の場」だったのだろう。
映画『万引き家族』の奇妙な疑似家族共同体から、「哀愁の共同体」という言葉を思い浮かべてしまうが、そもそも、日本の任侠組織や海外のマフィアなど犯罪組織は、疑似家族共同体である。
血縁以外の強い繋がりで結ばれた共同体――先にも述べたが遵法精神が求められ、他人への迷惑行為が批難され、コンプライアンスという言葉が社会を覆いつくす現代においては――血縁以外の強い繋がりで結ばれた共同体自体が否定され排除される時代かもしれない。
社会が内/外に完全に分割された時代。内/外の辺境地帯も失われた時代。ほぼ全ての人間が社会の「内」に包括されたが、その社会から投げ出される不安や他人を投げ出す快感に息苦しさを感じる時代――それが現在の社会かもしれない。
小さな魚スイミーの物語を考察
何らかの理由により社会の外で暮らす者たち、社会から守られない者たち、社会から投げ出された者たち、社会から逃げ出した者たちが固まりを作る。
映画『万引き家族』に登場する『スイミー―ちいさなかしこいさかなのはなし(原作レオ・レオニ1963. 翻訳谷川俊太郎1969.)』の主人公スイミーは、仲間の「小さな赤い魚」たちのなかで唯一自分だけが「小さな黒い魚」だった。大きなマグロに襲われたスイミーの集団のなかでたった一匹だけ助かったスイミーは新たな仲間(集団)を探す。
スイミーと新しい「小さな赤い魚」たちは大きなマグロから食べられないよう、「固まり」で泳ぎ自分たちの大きな魚のように見せる。黒い身体のスイミーは、「固まり」(大きな赤い魚に見せるための固まり)の目の役目をする。
小さな魚が集まり固まりとなる話の『スイミー―ちいさなかしこいさかなのはなし』。誰にでも役割はあると勇気づけられる話の『スイミー―ちいさなかしこいさかなのはなし』。『スイミー―ちいさなかしこいさかなのはなし』の話は、映画『万引き家族』の疑似家族集団の構成員を象徴的するように感じる。
逃げ続けた男が最後に追い掛けたもの
未成年者略取誘拐事件の発覚後、「柴田治」と治の妻の「信代」は処罰され、子供の「柴田祥太」は児童養護施設に入所し、「誘拐」された「りん」は親元に返される。
アパートでひとり暮らしを始めた「治」のもとを「祥太」が訪れ一晩を過ごす。 朝になり、施設に戻るためバス停でバスを待つ2人。
過去から逃げ、労働から逃げ、世間一般の常識から逃げていた(追い出された)父「治」がバスを「追う」シーンが印象的だ。それは、「とうちゃん」から「おじさん」に戻った男が、「自立を望み旅立つ男の子」を追う「本当の父」になった瞬間にも見える。
女性刑事が言った「本当の家族だったら逃げない」を思い出す。そう、逃げてばかりだった男が追う男になり、「父」になる。
「父」と「子」の関係は、是枝監督の大きなテーマの一つなのだと感じてしまう。
いつか、二人の「親子」の再会の話を見てみたい。
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